March 09, 2006

★急募★ロシアンブルー子猫の里親

hs.JPG

会社の人からメールがありました。ロシアンブルーのメスの捨て猫。推定年齢1歳くら。今はその人の実家(関東)でお世話しているらしいです。

飼ってくれる人急募!誰かいませんか?そうとう可愛いらしいです。

彼の実家には2匹のネコがいてこれ以上は無理。彼の家もペット禁止だそうな。うちにも2匹のネコがいて、しかも1匹は病気。飼いたいのはやまやまですがうちも無理・・・

条件は、とにかく家族としてずっと大切にして下さる方!

早く良い飼い主さんが見つかりますように。

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June 19, 2005

児童虐待と動物虐待

今日ニュースで、動物との共生を考える連絡会主催の「児童虐待と動物虐待~類似性と共通性」というシンポジウムが開催された事を知った。

動物虐待を考える上で、「虐待をする人」には数種類居るのでは、と最近思う。その中でも「虐待をされていた人」は最も大きな問題だとも感じる。動物虐待と児童虐待との類似性と共通性という、とても興味深いテーマだったので、「もっとアンテナを張って受講すればよかった・・・」とちょっと後悔。

簡単に解決できる問題ではないと思うが、知るべきだと思った。

シンポジウムの趣旨はこのようなもの。

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アメリカでは、児童虐待防止運動と動物虐待防止運動が非常に密接な関係を持って誕生しており、肉体的に児童虐待がおこなわれていた家庭の88パーセントで動物も虐待されていたという報告すらあります。日本においても、児童虐待防止法が施行されてその状況を耳にする機会も増えてまいりましたが、現場で児童虐待と取り組んでおられる専門家のお話を聞き、動物虐待に共通する事柄や、学ぶべき取り組みについて、パネルディスカッションを行います。

***『動物との共生を考える連絡会』HPより抜粋***
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どのような内容だったのかぜひ知りたいと思うが、新鮮に思えたのは、まだまだ「人間と動物を比較するの?」という様な、人間第一主義の人が多い中、児童虐待と動物虐待を同じレベル、とまではいかないのかもしれないが、共通点を見出して、同じ視点で考えようとするところだった。非常に理論的で、効果的な考え方に思えた。

類似性があるのなら、動物虐待を無くす為には児童虐待を無くさなければ。では、そもそも児童虐待をする人を無くすには・・・と考えると、経済的な問題から起こる生活環境、生活態度、その他諸々、解決しなければならない問題は多すぎるのでとても簡単に語る事は出来ない。

私は動物を尊重する人、虐待する人との間で決定的に違うのは「育った過程において周囲の大人が動物にどのように接していたか」だと感じる。児童虐待、動物虐待をしていた家庭で育った子供は、大人になっても動物虐待をする可能性が高い、という説があるが、その悪循環を断つために出来る事はなんだろうか。

これは個人的に感じることだが、しかも、動物虐待をする人の要因はそれだけではないとも思うが、身近な取り組みとして出来そうなのはこのへんかもしれない、と感じる。

そして、動物を虐待はしない、しかも可愛いと思う、という人でも、実際に動物に関する問題に遭遇した時、何かをする人、しない人、の差は、どれくらい動物について考える時間を費やしたか、によってくると思う。

例えば、車どおりの多い道ですずめが死に掛けていたとして、私達はまず何も出来ない。でも、そこで何も出来ないから、と通り過ぎる人と、せめて静かな、これ以上危険のないところへ、と、近くの植木の茂みに移動させる人、という違いはある。

無意味な事かもしれないが、そういう、他の生物に対する思いやりを持てる人と言うのは、きっと何らかのきっかけで動物について考える時間を持つことが出来た人だと思う。そういう人たちが動物愛護などの活動に立ち上がっていらっしゃるのだと感じる。

考えた事の無い人に対して、考えるきっかけを作る事は、出来ることの一つだと思う。

投稿者 kiyo : 11:50 PM | コメント (0) | トラックバック

April 27, 2005

ペットが望むこと

動物愛護と言っても、自分に余裕が無い時には考える事が出来ない、と感じました。最近仕事やその他で忙しかったので、せっかく立ち上げたこのサイトもなかなか更新できず・・・

余裕が無い時は、日々の生活で精一杯の時は、他の生物の幸せにまでなかなか考えが行き着かない、と実感しました。

と、思うと、動物愛護などの活動をされている方は精神的に格が上、というか、得のある方たちだなあ、と尊敬します。

blog peopleのanimal rights最新記事で気になるタイトルを見つけました。

「川の土手に捨てられ、捨てられたことも知らずに佇んでいた老犬。」

犬猫の飼い主としては身につまされるタイトルです。

最近感じていたのですが、飼っているペットの、本当に望む事をかなえる事が出来る飼い主さんは何割くらいいるのでしょう。

私は失格だと思います。幸い実家なので、母がまめに世話をしているため、うちの猫達は比較的幸せなほうだと思っては居ますが。

犬にとって一番の望みは「大好きな飼い主さんとずっと一緒に居る事」
猫にとっても、ほぼ同じだと思います。猫の場合はその前に「ご飯。寝る」などが入るかもしれませんが、猫によるかもしれません。ちなみにうちのメス猫は誰も家に居ないと餌を全く食べません。誰かが居ないと駄目です。

こちらのサイトにも、

犬が望む事はただひとつ。
愛する主人と共に生きること。

というお言葉がありました。その通りです。

まずは一番大切な「ずっと一緒に居る」という事。四六時中、という事だけではなく、最後まで、という意味で。

きっとペットを飼う時は病気になったら・・・などと考えずに飼い始める人が多いと思います。

可愛がっていても、病気になって手に追えなくなったら捨てる。
可愛がっていても、自己満足な、動物の本能や習性を無視した可愛がり方をしている。

こういう飼い主さんは、意外と世の中に少なくは無いのかも、と、最近周囲の話を聞いて感じました。

・・・まとまりませんが、

愛情を受け止めて一緒に居る
動物としての本能、習性を尊重する
病気になっても最後まで変らずに世話をして一緒に居る

この3つが大事なのでは、と思います。

投稿者 kiyo : 11:35 PM | コメント (0) | トラックバック

April 04, 2005

バーチャルペットで育ったら・・・

私は今たまごっちを育てています。(ひょんな事から・・・)もう8代目です。一度も死んでいません。そして、先日このサイトにblogpetなるものを設定してみました。ウサギのusaです。いきなり私の変わりに記事の投稿をしていてくれてびっくりしました。

たまごっちをやってみて気付いたのですが・・・

犬や猫に対する感情や態度は、それまでどの程度動物に接して来たか、も大きい要素だと思います。

私自身は、そういうケースではないのですが。20くらいの時に、半野良の猫を母が入れ始め、ほとんどうちの子になったのが始めての動物とのふれあいです。それまでは金魚とか亀とかしか飼ったことありませんでした。

ですから動物は少し苦手でした。嫌いと言うより、興味はあるけど怖い、という思いでした。母が動物好きだったので、動物は愛すべき、可愛がるべき存在だ、という事は、飼わないまでも身についていたのかもしれません。

でももし、両親とも動物が嫌いだったら。周囲にも「犬猫よりも人間様だ」という考えの人が多かったら、今のように動物好きにはなって居ないかもしれません。

たまごっちを育てて感じることは、可愛いのですが、もし子供がこれに慣れてしまったら生身の動物をどうやって見るのだろう。という事です。たまごっちは調整できます。寝る時間もおきる時間も。たまごっち以外のバーチャルペットも、今は多種多様にありますが、ある程度は世話をするのに調整可能なのではないでしょうか。

自分のペースで育てる事になれてしまったら、ちょっと恐ろしい気がします。

子供は小さい時から動物に触れ合わせる事も大切なのだろう、と思います。

投稿者 kiyo : 11:20 PM | コメント (0) | トラックバック

March 24, 2005

クリオネ大洗で保護される

「ANIMALS」では無いですが、同じ生物ということで・・・

今日のニュースで、クリオネが茨城県の大洗で発見され、水族館に保護されたとありました。

産経WEB

クリオネは流氷の妖精と呼ばれる巻貝の一種です。オホーツクに流氷と共にやってきます。茨城県にいるなんてかなり驚くニュースなのです。実は私の家にはクリオネがいます。動物愛護サイトを立ち上げた人間としては多少の矛盾もあり、やや言いにくいのですが・・・

このニュースを見て、多くの人は「せっかく海に居たのに捕まえるなんて可哀想」と思われる方も居るのでは・・・と少し思ったので、素人クリオネ博士としての意見を書いてみようと思います。

クリオネは餌を一種類しか食べない生物です。そしてその餌のミジンウキマイマイ(これも巻貝の一種)は、クリオネのパッチ(群れではなく、水流によってクリオネが集まってしまうのでそのかたまりの事)と一緒に生息します。また、クリオネは水温が低い所でしか生息できません。この季節に北海道に流氷と共にやって来て、流氷と共に去っていきます。

以上の事から、大洗で発見されたクリオネは、オホーツクから流されてきたものと思われ(過去にも何度か大洗で発見された事があるそうです)、もう二度と流氷と共に帰れません。また、餌にもありつけないと思われます。そして、これから水温が上昇すると共に、体力を消耗して死んでしまいます。鮭の餌になったり、イソギンチャクの餌になったりします。

いずれ死んでしまう運命にあったクリオネ。だったら、せめて水族館が引き取って、多くの人にクリオネの生態を教える。こんな小さいプランクトンでも、懸命に生きているという事を人間に伝える、という役目を負うことになっても、許されると思うのです。食物連鎖を考えると、「少数だし」という思いは危険だとも思いますが。もしかしたら水族館で餌をくれるかもしれないですし。

こうやって、生態を知ると、見方が変わります。この見方が必ずしも良いとは言えませんが。

うちのクリオネに関しては、去年の6月に、北海道に残っていたクリオネがひょんな事から大量にうちに来ました。「近々死んでしまう環境にいて、たまたま漁師さんに引き上げられたので、せめて子供や人様のお役に立てるような、水族館や学校や施設などで人々に生命の大切さを教える事に役立てて欲しい。可愛がってくれる人にお分けして下さい」という送り主のご要望で、幼稚園や小学校、水族館にお分けしました。

残りをうちで面倒見ています。

数人から、小さくても命を大切にしなければいけないと改めて感じたという声を聞きました。これが身近な動物への思いやりにも繋がると思ってます。

でも、この季節に、うちのクリオネも北海道に戻してあげるべきだったかもしれない・・・と思いつつ、北海道に行かなかったのは私のエゴです。せめて餌を手に入れて食べさせてあげる事が、私に出来る最大の事だと思ってます。

ちょっと懺悔日記でした。

投稿者 kiyo : 10:45 PM | コメント (0) | トラックバック

March 21, 2005

尊厳-Dignity

渋谷文化村で今日まで開催された「地球を生きる子どもたち」を見てきました。動物問題ではないのですが、テーマ別に展示された世界の子供達の写真を見て、そのテーマのひとつ「尊厳」について、ちょっと考えました。

ちなみに私は尊厳とは「尊くおごそかで侵しがたいこと」と理解しています。

尊厳とはとても大切な事だと思っています。人間が生きる上で一番大切なのは尊厳だと以前は思っていました。でも、以前映画「戦場のピアニスト」を見てからは、極限の生命の危機に瀕したら、人間は尊厳よりも「生命の維持」の方が大切になるのかもしれない、とは感じましたが。

尊厳とは、人間にだけ当てはめられる言葉のように感じます。でもこれって動物にも当てはめる事が大切なのでは、と思いました。

人間でも尊厳が守られない人も大勢居ます。でもそれは他の人々の心を痛め、みんなの尊厳を守らねば、と思い、行動に移させるのだと思います。自分と同じ人間が、尊厳を損なわれている姿はとても見ていられない、と感じるのが一般的だと思うので。

一方、動物に対しては「可哀想」等の想いはあっても「彼らの尊厳を守らねば」という考え方は少ないような気がします。

人間も動物も同じ生物。動物にも尊厳があると思えば、一人一人が動物に接する気持ちも変るのでは、と、今日の写真展で感じました。

投稿者 kiyo : 10:53 PM | コメント (0) | トラックバック

March 19, 2005

ボランティアの精神

以前知人から聞いた事です。

ボランティア、慈善事業に関心がある場合、一番簡単なのは「お金を提供する事」。

次が「時間を提供する事」。

その次の一番難しいのが「お金、時間を費やし、生活の一部にすること」。

確かにそうだなーと感じます。

今私は、月に5000円だけ寄付をしています。フォスタープラン、国境なき医師団、最近始めたのがWWF(財団法人世界自然保護基金)。

動物愛護に感心が出て、そちら方面にも小額ですが寄付を、と思っていますが、今いろいろと調べている最中です。

今はまだ小額の寄付に留まっていますが、いずれは時間も費やす事はしたいと思います。でも、「お金、時間を費やし、生活の一部にすること」は、難しいだろうなあ、と思います。出来ればしたいですが。

マザーテレサはやっぱり凄い。と思います。

友人が手伝っている団体で、クメール伝統織物研究所という所があります。カンボジアで伝統織物の復興を目指し、工場を作り現地の人を雇うことで、現地の方々の生活を支援していらっしゃるのです。

動物問題ではないのですが、ボランティアの精神と言う意味では素晴らしい活動です。現実的に取り組んでいらっしゃる。

私の親友が「人間にとって一番の幸せは、人のために何かする事に喜びを感じること」と言っていたのですが、自分に何が出来るか、なかなか難しいなあ、と思います。

宝くじが当たったら地方に土地を買って、行き場のない犬猫を引き取り、里親さんを探す。里親さんが見つからない子はそのまま世話をする、という施設を作りたい!と思いますが、現実的に考えねば。

実際に活動している方は凄い!とつくづく思います。

投稿者 kiyo : 11:31 PM | コメント (0) | トラックバック

動物愛護を考えるのは少数派なのでしょうか?

最近、このサイトを立ち上げた事でいろいろと人の意見を聞くのですが、その中で「少数派」という言葉を聞きました。

動物問題では無い話から出たのですが。

その方は、仕事がらみで10年前に起きた阪神淡路大震災の救助に携わった方に、この10年で何が変ったか、どれだけあの時の教訓が今に生かされているか、などと言う講演を依頼し、その講演会を企画されたそうです。

新潟の震災、スマトラ沖津波などの自然災害がどれだけ人の生活を破壊してしまうか、これだけニュースになっている問題だからこそ、かなりの出席者がいるだろうと予想されていたそうです。私も行きたかったのですが、仕事でいけませんでした。

ところが、実際の出席者は予想に反して少なかったそうです。それで主催者側の彼女達は、リサーチの結果、結局は大多数の人が自分の事で精一杯。よその国の戦争や内乱、自分の国の災害や社会問題であっても、「自分は関係ない」と思っている人が思った以上に多い。と気付いたそうです。「今回の件、私達の考え方は少数派だった」と。

実際にこうやってサイトなどを見ると、色々な分野で物事を良くしようと努力している方は大勢いらっしゃいます。テレビや雑誌や新聞、いろいろなメディアで様々な分野で活躍し、努力し、身を粉にして世の為人の為に活動している方は沢山居る事を知る事が出来ます。

でも、それって、日本国民の中で考えたらほんの、とても少ない数%なのかも、とその時に思いました。

イラク戦争の際にも「ニュースで見ても新聞で見ても、やっぱり自分とは関係の無いよその国の出来事なんだよね」という意見を多数聞きました。そういう私も、「よその国の事」とは思えなかったものの、大した事は出来ませんでしたけど。募金と反戦署名のみ。

実際に行動に移す人は少数派と言うのはわかります。そこまでの方はなかなかいらっしゃらないので。でも、こういう、「気付いた物事を良くして行く」という考え方自体が少数派というのは、ちょっと悲しいと感じました。

「もっと自分の事やったら?」「そこまで考えちゃうの?」とか言われると、やはり自信がなくなります。自分では「子供や動物。罪の無い、力の無い者は、大人が守らなければいけない」と言う考えは正しいと思うのですが、特に人間の欲の為に他の生命を殺す事は絶対に少なくしなければ、と思うのですが、「何もそこまで」と言う言葉を多く聞くと、「そういうものなの?」と少し思ってしまいます。

少数派なのでしょうか。でも、気付いた人が、自分が納得できるように行動するのは大切なことなのでは、と思うのですが・・・まだ何も行動していないのですが。

もっと勉強して自分の考えに確固とした自信を持てるようになりたいです。

投稿者 kiyo : 01:04 AM | コメント (0) | トラックバック

March 07, 2005

「無知」という恥。でも知って考えない事の方が恥なのかも。

昨日動物問題を調べ始めてから、自分の無知を実感しました。

かれこれ2年前。愛猫ぽよんちょの病気を調べている時に知った動物問題を扱うサイトの多さ。見過ごせない問題だと思いつつ、今やっと現実を知って、かなり愕然としています。

自分のペットを家族のように可愛がる飼い主さん達も、私のように「外の世界で起きている話」として、気付かない振りをしている問題って多いと思います。

少なからず、愛猫の病気と言う厳しい現実を通して、動物達の厳しい現実を知る事が出来た。それが、去年の夏に映画Deep Blueを観て感じた「何か」を、自分の中で形にしつつあるように感じています。
昨日書いた「Dear,こげんた」のサイトから、以前書いた毛皮問題などを扱うサイトにたどり着きました。

ヘルプアニマルズ

つい最近から、出来るだけ革製品は買うのを控えよう。毛皮なんてもってのほか。と思うようになりましたが、今日座禅の帰りにふと今の自分はいくつの革製品を使っているか見てみました。


バッグ
財布
スケジュール帳
手袋の手首についている飾りの黒い毛皮

これだけありました。
数年前に一目ぼれして買った、思いっきりゼブラプリントの毛皮のバッグは最近使わないようにしています。

思えば、毛皮製品に「?」を始めて感じたのは、数年前に知り合いからフェンディのハラコのパーティーバッグを頂いた時。ヨーロッパ土産でした。

・・・ハラコとは、牛や羊の妊娠した母親の腹から、生まれる寸前の子供の毛皮ということである。・・・という事を後で知って、恐ろしくて使えなくなりました。

今となっては、もっと恐ろしいものが私の身の回りに沢山あります。

「無知」という恥をさらしていた自分を心底恥じました。でも、知ったからにはもう買いません。

きっとそういう事に気付いている人たちから見れば、私は相当無知で馬鹿な人間に見えた事でしょう。

上記のヘルプアニマルズというサイトは、直視できない画像もあり、知らない事の恐ろしさを感じました。毛皮は動物から剥ぐ=その動物は死んでしまう。という事だけは知っていても、その毛皮を得るまでの残酷さについては知らなかったし、裏事情も知らなかった。

そしてウール。羊から毛を刈るので、羊は死なないのだろうと、「使ってもいいもの」に自分の中でカテゴライズされていましたが、とんでもない。

毛を刈り取るまでに劣悪な飼育環境から死んでしまう羊の数、実際に刈り取る時にどうするのか、信じられない現実が書いてありました。

そして動物実験。普段目にすることも耳にすることも無い為、初めて知った現実です。私が命をかけているほど愛する化粧品も、国内大手メーカーのほとんどは動物実験を行っているそうです。

想像を絶する事ばかりです。

疑問に思いながら気付かなかった問題。身に付けている革製品は、必要なのか?実際に靴で革を使わないものを見つけるのは至難の業だと思います。せめて靴などに使う革は、食肉になった動物のものであって欲しいと願いますが。

こういう生命倫理的な問題は、宗教と同じで人によって考えが異なりますし、社会生活を円滑に過ごす為には押し付ける事は決して出来ない問題です。

しかも矛盾している私は、そして無類の肉好きの私は、知った今でもすぐに菜食主義者にはなれない。

甘い考えかもしれませんが、時間がかかりそうです。自分の中で解決できるまで。せめて野菜を多く食べるようにし、肉類は有り難く頂く事からしか出来ない私ですが、これからは「知ったからには出来る事を」を忘れずに生活したいです。

投稿者 kiyo : 10:27 PM | コメント (0) | トラックバック

March 06, 2005

「Dear,こげんた」から知るネットのちから


まだ読んでいません。今日amazonで注文しました。

2000年に福岡で起きた「こげんた事件」ってご存知でしょうか?猫闘病日記サイトを充実させようと、動物愛護問題を検索していて行き着きました。「Dear, こげんた」というサイトに。
どのような事件だったか、読んでいて思い出しました。2ちゃんねるの動物嫌いの人が集まるサイトで、子猫を虐殺する様子を4時間に渡って実況中継し、写真まで載せた松原潤という無職の27歳の男性が、良識あるサイト訪問者からの通報で逮捕されたと言う事件です。

「こげんた」と言うのは、後で付けられたその子猫の戒名だそうです。遺体は見つからなかったそうです。

猫を飼っている私は、その当時ニュースで「動物虐待」と聞いただけでその詳細は聞けず、目を逸らしていました。確かその時も「聞きたくない」という思いで詳細は知らなかった。知ってしまったら後悔しそうで。その時の自分では受け止められなかったと思います。

今日は、保健所に保護された犬猫を救うようなサイトを見ていたのです。そこにリンクが貼ってありました。

「この事件を風化させないで。動物虐待は犯罪です。」と。

このDear,こげんたの管理者の方は、当時NYでこの事件を知ったそうです。愛猫家の彼女は、その犯人がネットに載せた子猫虐待の写真を見て、ショックの大きさに眠れなくなり、夢中で数日間寝ずにサイトを立ち上げたそうです。何か出来ないか。許される事ではない。と。

すると、サイトの訪問者が一気に増え、犯人を書類送検だけで済まさずに、刑罰を、と3万人の署名も集まり、動物虐待では異例の有罪判決が下されたと言う事です。懲役6ヶ月執行猶予3年。

まずは事件の概要と、経緯を知らなければ、と、サイトを熟読しましたが、あまりにも辛かった。全てを読むのに、時間がかかりました。動悸がして、涙が出て、胃が痛くなって。

そして写真も見ました。見たら後悔するかもしれないと思いましたが、今なら2年前と違って受け入れられると思ったので。未だに脳裏にこびりついています。泣きながら息苦しくなりながら見ました。

こげんた事件を扱うサイトはいくつもありました。その中に「どうしてあの男に捕まる前に、私がこげんたと会えなかったのだろう」というコメントもあり、同調しました。犬や猫と共に暮らす人なら、同じ様に感じるでしょう。

今思うことは、知ったからには出来る事をしないといけない、という事です。昔よりは、目を逸らさずに立ち向かえる強さが出てきた気がします。

Dear,こげんたのサイトも、一人の力が集まって、大きな力になった。一人では何も出来ないけど、それが集まれば影響力が出てくる。サイトの利点はそこにあると思います。

この犯人は、今はもう社会復帰しているのかもしれません。私達と同じ電車に乗ったりしているのかもしれない。犯人に「どうしてあんな事をしたの?」と責めても意味の無い事だと思います。動物を虐待するような人間は、恐らく一生、世間一般の人と同じ様に思うことが出来ないと思います。

「何が悪いんだ?」という考えは変らない。改心できないと思います。聞く耳を持たない人、反省をしない人は、変わりません。多くの異常犯罪の犯人は同じ目をしています。どんより曇ったような。

最適なのは、罪の無い弱い存在を傷つけるような行為をする卑劣な人間を失くす事。それは不可能に近いです。どんなに住み易い、良い世の中になっても、そういう人間はいなくならないでしょう。全世界的な大改革、それも経済、道徳観念も含めて、が必要です。

だったら、そういう人間から弱い存在を守る事。それなら今からでも出来ます。

こげんたは野良猫だったようです。でも、人についてきて、与えられた餌も食べたという事は、人に慣れていたのかもしれない。

写真のひとつ、バスタブの中で猫缶を、缶の底が見えるまで食べて、何の警戒心も無く汚れの無い可愛い目で犯人を見上げるこげんたの写真。あの目を見たら、何かせずにいられません。

汚い事、悪がはびこる世の中、自分の中にも悪はありますが、あのこげんたの目のような、罪の無い綺麗なものは守らなければいけません。

さっきうちの愛猫を抱っこしました。うちの子達はもう10歳になりますが、とても軽くてか弱い存在です。子猫となれば尚更小さな弱い存在。許せません。

理由のある殺人は仕方ないとしても、罪の無い存在を傷つける行為は何があっても許せません。人間が一番偉いわけじゃない。

「動物虐待」という言葉は、今もニュースでよく耳にします。こうやっている間にも、罪の無い存在が辛い思いをしているのかもしれない。

この件は、頭の中でまとまったらまた書きます。

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February 12, 2005

上野動物園から思い出した「リストラされる動物達」

翡翠展のついでに、上野動物園に行って来ました。久しぶりです。

前にホッキョクグマの番組を見たときに思い出した、動物園で年老いた動物、引退した動物の世話をする個人経営の動物園の事を調べてみました。
たしかこの堀井動物園というところだと思います。

報道プロジェクトの「リストラされる動物たち」という番組を見て記憶に残っていたのだと思います。

その番組は衝撃的でした。個人経営の、決して広く衛生的とはいえないスペースで、年老いて動物園から引退した動物や、病気になった動物、余剰になって動物園を追い出された動物をお世話しているのです。余りにも身勝手な人間が、表側を楽しんでいるにも関わらず、隠して見ないようにしている裏側の世界。見ていられないものがありました。

「人間が楽しんだ"つけ"がこの動物園にまわってきているんですよ」という様な事を、スタッフの方がおっしゃっていたのが印象的でした。気付かなかった現実を見てしまった。という感じでした。

その後、記憶に残りつつも忘れていたのですが、最近また思い出し、今日の動物園をきっかけに調べてみました

堀井動物園応援ページなるものもあります。

他にもこんなサイトも。

これはペットショップでも言える事ですが、多くの人は表の可愛い姿だけを見て、人間に見放された動物達がどうなるのか、という裏の部分は見ようとしません。見ていたらきっと保健所で処分される犬猫の数も減ると思うし、この堀井動物園に追いやられてくる動物達も減るのでは。

その報道プロジェクトでは、コメンテーターが「可愛いところだけでなく、老いて死ぬところまでも見せるのが子供への教育ではないか。」といっていました。

私も、そう思う。動物園や水族館自体を失くすのがベストかもしれない。でも、動物園や水族館は、子供や大人に生物の生態を教える上で必要なのだと思います。私自身水族館は大好きです。

動物園や水族館で、生きている人間以外の生物に触れることで感じ取るものがあるはず。そこから人間と自然や、他の生物とのかかわり、について学ぶのでは。

そう思うと人間の為の犠牲ですが・・・

今日も、ライオンやキリンやヒョウなど、大き目の動物を見ていて、人間って傲慢だなあ。と感じました。自分の事は棚に上げて、なんですけど。

自然で戦ったら絶対に勝てない相手を、頭脳を使って捉えて、楽しみ(よく言えば教育)の為に他の国まで連れてきてしまう。ある意味で傲慢です。

こういう問題は考えるときりがないので、あやふやなままこの辺にしておきますが、動物園を無くすまでは行かなくても、動物を、人間と同じ様に助ける、と言う行為はすべきなのでは、と心底思います。せめて「人間の為のもの」、ではなく「共存」に近い形に出来るような・・・

投稿者 kiyo : 08:45 PM | コメント (0) | トラックバック

January 28, 2005

ホッキョクグマ哺育物語


またもややられました。NHKに。騒がれて批判されてはいますが、やっぱり良い番組作るのです。

ピース5歳~日本初 ホッキョクグマ哺育物語~

・・・愛媛県の「とべ動物園」にいるホッキョクグマのピースは、平成16年12月、5歳の誕生日を迎えた。飼育員の高市敦広さんが人工ほ育に成功し、ホッキョクグマの人工ほ育は日本で初、世界でも3頭目と言われている。・・・

皆様にお知らせせずにはいられません。

もう涙涙。うるうるうるうるうるうるうるうるうるうるうる。

可愛いホッキョクグマの赤ちゃんを、人工保育は国内初体験という事で、試行錯誤で一生懸命飼育する飼育係の高市さん。当時30歳くらいなのですが、奥様お子さん総出で、自宅で我が子のように育てる姿。ホッキョクグマだけに冬でも暖房厳禁。窓は開けっぱなしで。

そしてホッキョクグマとして自立させるべく突き放さなければいけない高市さんの辛そうな姿は、涙無しでは見られませんでした。

母親に育児放棄されたコグマを我が子のように、我が子以上に愛情を注ぎ、ホッキョクグマの成長を見守る飼育係さん。

ホッキョクグマピース君の5歳のお誕生日には、家族で手作りのケーキでお祝いしていました。もちろんピース君はもう大きい為危険で、折の中に入って抱き合う事すら出来ません。

水族館に行っても感じましたが、飼育係になろうとする人は本当に生き物が好きな人で、危険も顧みず小さな生命を守ろうとするようです。

野村潤一郎にも通じるものがあります。

私もそういう人間になりたい。

そして、こんな人間もいるのだから、動物虐待という行為をこの世の中から無くしたいものです。

投稿者 kiyo : 08:49 PM | コメント (0) | トラックバック

November 21, 2004

野村潤一郎

以前もぽよの病気のあたりで書きましたが、今日スーパー獣医さんの野村潤一郎のテレビをやっていたので真剣に見ました。

やっぱり凄いです。ぽよの病気の件で猫の病気の本を読み漁った時に彼の本を読んでから崇拝しているのですが、このお方は凄い。
見た目ところどころ金髪に染め、太いネックレスやら時計やら指輪やらをし、フェラーリやらランボルギーニやらに乗るという派手なところもありますが、そんな事はどうでもいい!と言うほど彼の動物に対する愛情と信念、生き方には尊敬の念を抱かずにはいられません。

出来る事なら私もこういう生き方をしたかった・・・と心底思います。

今日の番組の中で彼の言っていた事が印象に残りました。

過去に育てた動物達のお墓参りをした時の言葉。

「魂が地上と天を行き来する水の様な存在だとしたら、もしかしたら道端のありんこに自分がかつて飼っていて、愛した動物達の魂が宿っているかもしれないじゃないですか。そう考えたらどんな命も大事にしなければと思いますね。」

私も実は魂は絶対に生まれ変わると思っている派なので、この考え方には目から鱗でした。もしかしたら私が今日、部屋の掃除をした時に、ついつい焦ってつぶしてしまった書類の間から出てきたちっこいクモのような虫。もしかしたらあの虫は、今は亡きクリオネのくーちゃんやちびちゃんやクララの生まれ変りだったかも!と思って焦ってしまいました。

そもそもここ数ヶ月、クリオネに接する事でいろいろと考え、虫を殺すのに前よりもためらいを感じるようになって、出来なくなってきていたので良い機会です。文字通り「虫も殺せない女」になろうじゃありませんか。

そしてもうひとつ。野村潤一郎様のお言葉。

「生き物を飼う事とは、自分の命を削って与える事である」

これは同感です。ぽよが病気の時にそう思いました。愛する動物は、自分の魂の片割れです。病気の時には自分の命を削っても助けたいと思いましたし、動物を飼う事自体が、実際に自分自身の何かを削って与える事になります。

それは自分で稼いだお金、世話をするための時間、世話をするために必要な知識を得るためのお金、時間、知力。そのたもろもろ。

病気になったときにはまさに寿命が縮み思いで見守るしかない事もあります。

スーパー獣医野村潤一郎は凄いです。もっと場所が近ければ絶対に彼の病院に行くでしょう。

彼を見ていても思いますが、人に言い訳をする必要の無い位、努力をし、正しい事をしている人は強い!説得力があります。

実は、大分前にdeep loveシリーズの犬の物語を読んだのですが、その本は捨てられて処分される犬の現状を訴える為に書かれた本でした。ぽよが病気の時、猫の病気のサイトを探しているとその関連のサイトに行き着き、熟読した事がありますが、大きな問題です。動物愛好家も目を逸らしている問題だと思います。

以前知り合いがダルメシアンを飼う予定だと言う話から、「ダルメシアンを見たいと思って公園に散歩に行ったらチワワとかトイプードルとかミニチュアダックスフンドばっかりだった。前はあの公園はレトリバーとか大型犬ばかりだったのに。一体どこに行ったんだろう。」という話になりました。

不思議です。でも、deep loveの本によると、年間27万匹の犬が処分されると。作者は世田谷の施設の見学に行ったらしく、処分される犬の状況がこの本には詳しく書いてあるのですが、飼い主の理由で持ち込まれる犬猫の%は驚くほどでした。覚えてないのですが、え?そんなに?と。

で、長くなりましたが、この日記、形を変えてこういう内容も入れたいのです。クリオネ日記とぽよの病気に関する日記と、こういう、興味を持った問題を調べて何かするような。

時間をかけておいおいね。の話ですが。

自分の事しか考えず、「そんなに頑張っても意味無いんじゃない?」という人が多い中で、この野村潤一郎のように、deep loveの作者のように信念を持って形にする人の存在は貴重だと思いました。

投稿者 kiyo : 08:53 PM | コメント (0) | トラックバック

March 07, 2004

競馬の馬

今日ニュースで「ハルウララ」という負けてばかりいる競馬の馬の特集をしていました。負けているけど人気があるそうで。私は競馬をしないので知識が全くありませんが、びっくりしたのは、連敗しつづけた馬は処分されると言っていたのです。

実際に処分される為にトラックに乗せられる馬が嫌がっている映像も。見れませんでした。そんな事知りませんでした。すごーく「許せない」という感情が込み上げてきました。でも、私は牛は食べる。しかも大好き。この辺が矛盾です。

百歩譲って、食料とする場合は仕方ないとしても、人間の娯楽の為に、しかも負けるからと言って勝手に処分するなんて許される事なのでしょうか?

そう思うと、人間が食料とする以外に他の動物を殺す事って、結構日常茶飯事かもしれません。畑の被害を防ぐ為に野生の動物を殺したり、カラスを処分したり。こちらが被害を被ってしまうので仕方ないと思いますが、「いいのかなあ」と思います。

最近世の中の矛盾がやたら目に付いて、しかもそれによって自分の矛盾にも気付かされ、妙な気分です。そのうちきっとある程度割り切って生きる事を学ぶのだと思いますが。

矛盾の無い世の中ってあるのでしょうか。

少なくとも、自分なりの考えを持って、自分の行動に「言い訳」はしたくはないです。

投稿者 kiyo : 08:54 PM | コメント (0) | トラックバック

December 29, 2003

人間は存在自体が悪とも言えるかも


昨日は八景島シーパラダイスにに行きました。そこの水族館で、なんとなくぼや~っと頭に残っていた帰り際のアシカ(アザラシかも)の悲しそうな泣き声。狭いスペースの水槽で、客の顔をじーっと見ながら泳いでいた大きなシロクマ。見ていた時は夢中になって感心しましたが、芸をするイルカやセイウチやアシカ、シロイルカ達。可愛かったし楽しかったのですが、その感情の裏で、今日になって少しやり切れない気分が出てきました。特に哺乳類に対して。

そして掲示板にダイバーの友人が書いてくれたニモの影響によるクマノミ大量捕獲。立派な意見を持つ人と友人で良かった、と思いました。彼女の言葉で「楽しさ」「興味」などの好奇心で隠れてしまっていた事に気付きました。

私は動物園やペットショップに行くと「可愛い」と思いながらも心が痛みます。でも水族館は今までそんな事は無かった。クリオネやクラゲや蛇が大好きなので。でもやっぱり哺乳類に対しては見ていて心が痛むものが在りました。これは猫を飼っているから哺乳類には弱い。魚は身近ではないので心が痛まない。という事だと思いますが。動物虐待のニュースなどはチャンネルを変えてしまいます。見ていられなくて。

でも昨日のシーパラにも哺乳類はいました。ホッキョクグマやトドやセイウチやラッコ、、、大きな哺乳類が小さなスペースにいるのは、思い出すとしのび難いものがあります。でも昨日はそれよりも楽しさが先行していましたが。

たまたま今日、NHK教育で「アジアの子供たち」という番組があったので見ようと思っていたのですが、間違えてNHKをつけていました。そこでこの番組を放送していたのです。

大自然スペシャル 動物カメラマン野生へのまなざし
  - 氷原の王者・ホッキョクグマに迫る~岩合光昭 -  
世界の名だたる動物カメラマンたちが自らの最も得意なフィールドやテーマを選び、ハイビジョンカメラで撮影に挑む「動物カメラマン・野生へのまなざし」は、夏に3本放送して好評を得た。今回はアンコールの声にこたえて、そのうち2本を放送する。
カナダ北東部・ハドソン湾を舞台に、岩合光昭カメラマンがホッキョクグマに至近距離から迫る。巣穴から出てくる赤ちゃんグマや、花畑にやってくるクマなど、ホッキョクグマの素顔を明らかにする。


花畑でのんびりするホッキョクグマ

この自然に生きるホッキョクグマの表情と、昨日のシーパラに居たホッキョクグマの表情を比べてみると、動物は例え他の動物に殺されたり、自然に淘汰されても、自然の中で自然なまま生きるべきだ。と感じました。あたり前のことなのですが。

ある意味では動物園なども子供に動物の存在、生態を教える為には必要のかもしれない。食料にするという意味では、他の肉食獣も同じ。でも、人間は命を商売にする。

前にも書いたかもしれませんが以前TVで、動物園から年をとった動物や病気になった動物を引き取って世話をする個人経営の動物園の取材をしていました。「人間が楽しんだツケが全部ここに集まってくるんですよ」と経営者が訴えていたのと、司会者が「動物の生態だけでなく、死までをしっかりと子供に教える社会にしていきたいですね」と言っていたのが印象に残っています。

食料と言う意味で考えてしまうと、私もニモを見た後では「暫くお魚は食べられない。。。」と思いつつも二日後の忘年会では鯛を美味しく頂いてしまいましたし、今朝も「豚舎全焼で豚100匹焼死!」というニュースを聞いて「可愛そうに。。。」と思っても豚肉大好きです。牛肉はもっと好きです。明日も焼肉に行く予定です。鳥も大好き。魚はあまり好きではないですが、お刺身は大好きです。

考え抜くと、少し感じた忍びなさをとことん突き詰めるとベジタリアンにならざるを得ないと思いますが、私にはそれは無理です。「人間の勝手だ」とわかりつつも、美味しく頂いてしまいます。

他の肉食獣は、本能で他の動物を食べる。味で選んでいるわけではないし、自分が生きるために必要な分だけの殺生をする。人間は自分達の生命維持のためだけでなく、欲の為に殺生をする。他の命を商売にする。知能があるからこその行為ですが、それこそが人間の生まれ持った最大の「悪」ではないかと感じました。高い知能を持った人間故の傲慢さ。

地球上で、一番汚れの無い生命は植物なのでは、とも思いました。殺生をする事なく生きる。

こういう話になると宗教話に繋がると思いますし、いろんな考え方があると思うのですが、こんな考え方はどうでしょう。

他の生物は高い知能、感情を持たない為(例外は居ますが)、死の恐怖以外に「嫌な感情」は持たない。落ち込む事も悲しむ事も無い。本能のままに行き、子孫を残す。

人間は知能、感情がある為、他の生物よりも「喜び」「楽しみ」があるが、他の生物が感じない様な「悲しみ」「苦しみ」も感じてしまう。欲の為に楽しんだ分、苦しさも伴うのが人間の性。罪深い人間に苦しみは必要だ。と。

結局「人にした事は自分に帰る」は、「人」に対してだけではなく、「物事、生物、全て」に対してが正しいと思います。

きっと動物虐待をした人は生まれ変わったときに苛められる事になる、とか。

大袈裟な話になってしまいましたが、私自身も問題意識を持ちつつも曖昧。肉食は続けるし、水族館にも行くし、子供が出来たら動物園にも行くと思います。犬や猫も飼うかもしれない。どこで自分の中で折り合いをつけるか、という事なのでしょうか。

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